三束雨@藤岡 氏 特別寄稿!

宮城の赤城神社ですよ!宮城ではありませんので・・・・【註:すずき@東毛】

 2003年7月6日(日)、群馬県民はまさに運命の日を迎えた。 この日の結果如何で今後4年間の群馬県の行く末が決定してしまうからだ。 そう、今日は群馬県知事選挙投票日である。 しかし、投票開始時刻の07:00、既に私は群馬県を遥か北に脱出していた。 東北自動車道下り線、仙台宮城ICを5kmほど通過したところであった。 県政、もちろんそれはそれで重要であるが、それ以上に重要なミッションが私にはあったからだ。 それは・・・日本最北端の「赤城神社」をリポートすることである。
 ミッションにはいつも周到な事前準備が必要とされる。 かのイーサン・ハントも準備8割、実行2割と語っている。(嘘) まずは目的地の特定である。 今回のクライアント、すすぎ何某から与えられた情報は「宮城県中田町の赤城神社」だけである。 「どこだよ、いったい?」 とてもその情報だけで出発することはできない。

 前日、情報収集の為、地元の本屋に向かった。 色々な地図を漁ってみたが中田町に「赤城神社」の文字列を検索できたのは、昭○社のほとんど住宅地図的な「宮城県都市地図」一冊だけであった。 地図は縮尺が細かければ細かいほど高価になるのは誰もが知るところであろう。 「ゼ○リンの住宅地図は何であんなに高いんだ!(怒)」 それはそれとして、恐る恐る裏表紙の値段を確認してみた。 ¥2100・・・ 残念ながら今回限りのミッションの為に投資するにはあまりにも高価過ぎた。それに私は宮城県民ではない。 何かいい手は無いのか?携帯付きデジカメでパシャ!? だめだ、だめだ。今、流行りの立派な犯罪者になってしまう。 頭脳をフル回転させた私は「赤城神社」の隣りに「宝江小」なる小学校があるのに着目した。 どう読むのかも判らなかったが、もう少し縮尺の大きい地図でもこの小学校なら載っているのではと思った。 それと同時に自宅に5年落ちの同社刊「マップルリングEX東北」があったのを思い出した。縮尺は粗いが旅行には必要十分な地図である。今年度版のその地図に「宝江小」が載っていれば、新たに高価な地図を買う必要が無くなるのだ。 同地域のページを探してみる・・・ビンゴっ!「宝江小」、それはしっかりとあった。 ざまぁ見やがれである。 もうこの本屋に用は無い。 そそくさと自宅に帰り、地図、携帯付きデジカメ、ハンディカム、温泉セットをバッグに詰め、03:00に目覚ましをセット。 あとは眠りにつくだけであった。
 「宮城県登米郡中田町宝江新井田字後田22」これが宝江小学校の正式な住所である。 ちなみに「たからえ」だそうだ。(まんまであった・・・) 東北自動車道最寄のICは仙台宮城ICより更に3つ北の古川IC。 館林IC→古川ICだけで実に307km。 古川ICから宝江小学校まで県道、国道をくねくねとざっと48km。 トータル355kmの道のりである。 この距離、ミッション達成の為だけに行くには余りにも遠く、そして勿体無い。 ガソリン代、高速代、おまけに小遣いと神経とタイヤまで擦り減らして・・・ 周辺地域のリポートも必要であろうとクライアントの依頼を勝手に拡大解釈した私は、今年偶然にも仙台七夕旅行の為に購入してあった「るるぶ仙台宮城」もこっそりとバッグに忍ばせてあったのだ。
 08:00古川ICを下りたところで車を止め、るるぶを開いた。 どこか近隣に観光名所はないのか? 隣り町になってしまうが、登米(とよま)町という所が「みやぎの明治村」と称され「今でも武家屋敷や明治時代の洋風建築物が残され、ノスタルジックな町を形成している。」と書かれて あった。 最初の目的地はここと決めた。 08:55登米市街に入る。 確かに白壁の土蔵や古い町並みが続き、下田や松本に似た雰囲気の綺麗な町であった。 とりあえず町で一番有名らしい「警察資料館」なる建物に向かった。 「ハイカラさんが通る」だな、こりゃ。 昭和43年まで登米警察署庁舎として実際に使われていたという建物は白亜の洋風木造2階建、大きなバルコニーの上には燦然と菊の代紋が輝いていた。 【編註:桐生市相生町の「桐生明治館」みたい・・・】
 館内には当時の制服や白バイ、パトカーが展示されていた。 ひと通り見学し、写真に収めて車に向かおうとした時、向かいの商店の店先でひなたぼっこをしていた80才位のおばあさんが話し掛けてきた。

「おにいちゃん、○×■$∽&△§♀∇?」

 悲しいかな、判ったのは最初の「おにいちゃん」だけである。 雰囲気からすると「どっから来たん?」か「あっちにもいいとこあるんに」みたいな感じだったが何の確証も無い。 よっぽど一緒に居た白猫との方が会話できそうである。
 「おい、ちょっと通訳してくんねぇか?」 問い掛けてみたが彼(?)は彼で通りかかった三毛猫に臨戦態勢のご様子で完全に無視されてしまった。 猫にも無視され、これ以上ここに居る意味も見い出せなかった私は、おばあさんに笑顔と相槌だけを返し、本日の目的地へと車を走らせた。

 登米から宝江小学校までは北西におよそ5km。車で10分とかからない距離であった。 宮城県登米郡中田町。北上川流域に水田地帯を広げ、県内でも有数の米どころら しい。 宝江小学校はそんな田んぼの中の県道沿いにあった。

と同時にすぐ横の脇道に1本の白い看板を見つけた。

「光永山 赤城神社」

それはあまりにも突然、そしてあっけなく見つかってしまったのである。

ここか・・・ 群馬の代名詞「赤城」の2文字が確かにここ東北の地に存在していたのである。
北緯38度41分35秒,東経141度14分36秒。日本最北端であり、なおかつ最東端でもある。

正直、この出会いには感動というよりはむしろ、なんとも言えない違和感を覚えた。


何故ここに?


そう、この「何故」を解決しなければ今回のミッションは達成したことにはならない。

 はやる気持ちを抑えながら、入り口横に駐車し、鳥居をくぐった。 (写真左上) 境内はL字型をしており、入り口の鳥居から20m位の突き当たりに「清めの水」があり、そこから90度右に参道が折れ、ひと回り大きいもうひとつの鳥居が立っていた。 (写真右上) その鳥居から更に40m先には威風堂々、本殿がどっしりと待ち構えていた。 (写真左下) そして社殿の正面には「赤城宮」の文字が。 (写真右下)
 流石に宮城村の本家には敵わないが、群馬県内に散在している赤城神社でもこのレベルの威容、大きさはそうは無いであろう。
 また何故?が浮かんでくる。 そしてそれらはすぐに解決を迎えることになる。 第2の鳥居の右横に「赤城神社縁起」と掘られた石碑が置かれてあった。
 ほとんど現代語で書かれているので、古文で赤点を取っていた私にもすんなり読むことができた。 『伏見天皇の正応ニ年(一ニ八九)春三月 新井田領主千葉掃部草創の際 凶作が続いて 領民の苦しむこと 一方ならざるを憂い 当時下向して来た加賀国の産 増田掃部之輔と相い謀り 上野国の東宮赤城大明神に祈願せしに神験あり その年の九月 城の鬼門に当たる地を選び 境内を寄進し  社殿を建造して 大国主命を勧請し 厚く祈祀る 以後 藤原春信に神主を命し 産土神として崇敬し 三月 九月の二十八日を祭日と定ぬ 領民挙って信仰し 領主親しく臨んで 家内安全 五穀豊穣の祭祀を行ったと云う』

 つまり、「1289年3月、凶作に悩んだこの地の千葉掃部なる領主は、加賀出身の増田掃部之輔と一緒に上野国の赤城大明神までお参りに行ったところ、摩訶不思議な思し召しがあり、同年九月、そのお礼に大国主命 (オオクニヌシノミコト)を祀った神社をこの地に建立した。」 ということである。 700年以上も昔、赤城の神様が遥か300km離れた東北の一民衆の危機を救っていたのである。
 そして、その民衆の喜びの大きさがそのまま神社の大きさとなっていたのである。 「意外とやるじゃん、赤城の神様」である。賽銭は100円と弾んでおいた。 赤城山はというと、遥か南西の地平線すれすれに微かに・・・見えるはずも無かった。

 任務を果たしたその後の私は、中田町の生んだ偉大な漫画家、石ノ森章太郎先生のふるさと記念館でサイボー グ009と出会い(左上)白鳥の飛来地として有名な「伊豆沼」(白鳥がいなけりゃただのだだっ広い沼) を見学(左下)、栗駒温泉郷の「温湯温泉」に浸かり、築館市街でもうひとつのミッションの為、コンビニ でおにぎりを購入し(「温めますか?」の「あ」の字も聞かれず)、築館ICより帰路に着いたのである。 もちろん、遅い昼食に仙台の牛タンを選んだのは言うまでも無い。

 任務達成の満足感と笹かまを抱え、20:00無事帰宅。 ちょうど投票の締切時刻であった。 あと5分早ければ間に合ったのだが、残念ながら消極的信任投票を一票投じる結果になってしまった。 まぁ、結果は判っていたのだが・・・

 玄関を開けるや否や、娘が飛び出して来た。エンジン音で察知したようである。

 「パパ、おかえりぃ〜♪」 「ただいま〜」 「どこいってきたん〜?」 「ん?あ〜、ちょっと神社にお参りにね」 「ずいぶん、遠かったんだね」 「う、うん、ちょっとね(笑)」



三束雨@藤岡さん、渾身のレポートありがとうございました,
赤城の神様も「ぶったまげぇる」行動力ですね.
それにしてもどうして「凶作の祈願」に赤城神社が選ばれたのでしょうかね??