(SJJG会報第23号(1989)掲載;一部改変)


第1章 彷徨の時代

 1970年代後半は、空前のBCLブームだった.当時中学生だった私もこのブームに乗った一人だった. BCLの本を読んでいると「HAMからQSLをもらおう!」という記事があり、私は興味を惹かれ、愛用の東芝TRY X-2000で、3.5MHzにQRVしていた某JA0局に、まさにBCL風の受信報告書を出した.数日後返信が届いた.その何とうれしかったことか!今でも忘れることができない.その上、貧乏な中学生には国内料金でQSLカードが得られるのは大きな魅力だった.(注:当時田舎では国際返信切手券を入手することは非常に困難であった.)その後、JARLの存在を知り、SWL JA1-26359となったのは、それからまもなくの中2の1978年冬のことだった.7,21,50MHzを聞きまくり、すぐにHAMの免許を取ろうと思ったのだが、すぐに中3となり高校入試の準備もあって、念願の開局は高校入学後の1980年の秋のことだった.

しかしアルバイトをして、RJX610を買ったものの、アンテナには手が回らず、せっかく作ったヘンテナは群馬名物からっ風に吹っ飛ばされてしまい、先輩から譲ってもらった1/4ラムダのGPでは、折りしのサイクル21の凄さなどとうてい味わうこともできなかった.でも先輩たちとのラグチューは、ニューカマーにとって満足感を得るには十分なものだった.
ところが、少々勉学を怠ったために、成績が急降下した.当時はまだまじめな高校生だったので「この事態から抜け出すには、無線をしばらくやめねばならん!」と決心し、リグ等一切を封印して押入の奥深くへ片づけてしまった.当時のJCCは70ほどで、WACAどころか、JCC100、いやAJDも夢のまた夢だった.
不思議と高校時代は、無線の事など、ほとんど記憶の片隅に追いやられ、その分勉学等に熱中?した.こうした見上げた(?)根性にもかかわらず、現役の時には、群馬大学に見事ふられた.私は理系なのに物理が致命的にできなかった.(註;今も苦手だが、結局放射線なんて学問をやっているなんて人生どうなるかわからない.)こうして一浪の辛酸をなめて、1984年念願の群馬大学医学部に合格できたのであった.

大学入学後、押入からRJX610を出しては見たものの、GPではたいしたところとも交信できず、すぐに飽きてしまい再び無線とは縁遠くなった.医学部は6年制で、当時は2年間の教養課程と4年間の専門課程からなっていた.特に最初の2年間は大学とは名ばかりのレジャーランドであった.私は、生まれ育った太田市から、群馬大のある前橋市に下宿し、連日連夜麻雀に明け暮れていた.もはや無線のムの字もなく、当時流行っていた○○県一斉移動や、名古屋地区のアクティブ移動集団(NAG)の存在も知らなかった.CQ誌なども全然買っていなかった.一応局免の更新はしたものの、もはや無線界の浦島太郎状態だった.

2年生の夏に中古の車を手に入れ、興味は麻雀から車へと移った.金と暇の続く限り、赤城山、榛名山へと車を走らせた.1985年10月12日、私は太田の実家で眠っていたRJX610を持って、赤城山の上でQRVするという「妙案」を思いつき、赤城山の林道へと車を走らせた.



まさかこれが、WACAへの道の第一歩になろうとは知る由もなかった.



第2章 運命の出逢い

快晴の空だった.計画通り私は赤城山の中腹からRJXでQRVした.

少したつと、JO1HQQという局が呼んできた.話をしていると、彼は同じ群馬大学医学部の学生であることがわかり、すっかり意気投合した.前述のごとく、それまで無線は開店休業の状態だったので、彼とは初の交信であった.彼のシャックに遊びにいってもよいという許可を得たので、山から下りた後、すぐに遊びに行った.

彼の部屋には私の知っている50MHzとは全く別の50MHzがあった.

3エリアのカードなど私には信じられない存在であった.彼は50MHzでWACAを目指していることを知った.SWLでJCCの存在は知ってはいたが、これほど身近に、その究極を目指している人物がいたとは・・・・、私は大きな衝撃を受けた.

彼に自分もやってみたい旨を告げると、いろいろな事を教えてくれ、パイルアップを受けられる場所に2人で移動に行くことになった.

1985年12月1日、我々は藤岡市赤久縄山(あかぐなやま)へ出発した.呼ばれるかどうか心配であったが、開局以来味わったことのない猛パイルを浴び、一日でJCCは一挙45市増え、やっとWkd3ケタの大台に乗った.(実はこの日開局以来初めて千葉県と交信したのだった・・・)

「移動運用」と「JCC」という6mの「禁断の果実」を口にした私は、6mの魅力の淵に落ちていった.巷では、JE1再コールサインが発給され始めた頃だった.

さりとてアンテナがなく、しばらくは移動専門で、ロケの良い所から集中的にQRV、しかもHQQと突発的に行くゲリラ移動だった.とりわけ印象に残っているのは、86年4月6日の雪の沼田市子持山移動であった.初めての本格的山岳移動であったが、苦しみぬいた後の猛パイルは格別であった.この日WKdで200市となった.

だが大学が専門課程となったので、毎日実習で忙しく思うようにQRVできなかった.終末、太田の実家に帰り、Esでの交信が楽しみとなっていた.夏休み、問題となっていたGPより、2elHB9CVに換えたところ、5WのRJXでも(つらいが)2エリアとも交信できるようになった.改めて水平偏波の威力を痛感した.7月25日にはWkd300市を達成し、定期テストの終了後、2elを固定から下ろし、移動専用にして群馬県内各地を時間の許す限りQRVした.特に1エリアから呼ばれるのを期待して、久しくQRVのなかった新田郡、佐波郡等を重点的に攻めた.佐波郡の移動ではJS1KHRの訪問を受けて知り合いとなった.その他、HQQとの山岳移動で吾妻郡の籠ノ登山に登った.さすがに2200mを越す山は飛びが抜群で、念願の3エリアとも多数交信ができた.満天の星と、美しい日の出は強く印象に残っている.この移動でやっとWkd400市となった.

1986年は、私にとって激動の年であった.



第3章 迎撃の鬼

1987年は「迎撃」に燃えに燃えた.当時は未交信市は時間の許す限り、山、堤防で迎撃する覚悟だった.固定のロケでは北方面が絶望で、またはじめから移動でデビューしたので「WACAは固定からやるものだ」という一部の方のご意見には耳を傾けなかった.第一、JARLのアワード規約には「同一県内は有効」と明記されているし、ロケの悪い固定からでは100年経ってもできそうではなかったからだ.おいしい移動のある時は、アルバイトの時間を変えてもらったりもした.HQQとタッグを組んで「たかが1市」のため、吾妻郡の通称「迎撃山」へと繰り出したものである.ここへは県内とはいえ、前橋市から90km、太田からは120kmもあった.実習が終わった夜に、車を飛ばして行くこともあった.このため当時6mの珍市というところから交信してしまい、いわゆる「雑魚市」が残るハメにもなった.

私は完全に6mの虜だった.

我々は、迎撃に関しては何者にも負けない気迫があった.やはり何事も中途半端な姿勢では、道は極められない.

4月、固定(太田)に念願の6elが上がり、その威力には驚いた.あのRJXでも、定時伝搬で3エリアとも交信できたのだ!6月には中古ではあるがTS670も手に入れ、かつローカルとの情報交換用に430MHzのリグも購入した.開局7年目してやっと標準開局クラス並(当時)の設備になったのであった.設備の充実は効果覿面で、500市Wkdは6月14日であった.

HQQは、WACAへのカウントダウンとなっていた.私は彼の未交信市である山形県の新庄市、上山市へ行くことを計画した.7月11日、JF1FSRの岡山移動を迎撃に行った折りに、JE2KCR、JG2BRIからも上山市のリクエストを受けた.私は一大決心して、意気軒昂に7月24日山形県に向かい、新庄市では以後ローカルの間で「今の移動は、BPMの新庄より弱い(強い)ぜ!」というお粗末な移動でHQQと辛くも交信.上山ではHQQとは、59+、KCP,BRIとも何とか交信できた.これが私の他県へ最初の移動であったばかりでなく、多くの有名6mマンと知り合うことができ、その後のJCCハントの大きな力となったのであった.

その後も、順調にJCCは延びていった.迎撃したら必ず2〜3市はおまけで増えていった.群馬からは3および7エリアが交信困難な地域であった.9月、6mExpeditionTeamの岩手県移動にあわせ、HQQと一緒に北群馬郡への迎撃合宿を行った.この移動でWkd600市となり、さらに日本屈指のDXerであり、7月にWACAを群馬県で最初に完成したJH1ECUに差し入れをいただき、いろいろ参考になる話を伺え、知り合いとなれたのは、迎撃以上の大きな収穫であった.もちろん、HQQとともに、ECUは私の6mの師となった.

9月末、ついにHQQがWACAにリーチをかけた.10月4日我々は彼の最終交信市となった川之江市を迎撃すべく、再び籠ノ登山へ行った.(私はこの時点で607市Wkd.この日は強風と寒さが厳しく持っていった「カンバン娘」(針を刺すとアツカンになるカップ酒)が全く暖まらないほどの寒さであった.)彼はついに6mWACAを完成させた!完成の瞬間を目の当たりにした私は、ますます6mWACAへの情熱を駆られていった.

秋も深まり、11月やっと浦安市で1エリア全市との交信を終えた.さらにかねてから知り合いのJJ3INKグループのために、群馬県の市郡をECUサービス行脚に行った.彼らには多くのJCCサービスをしてもらっていたので、こちらもがんばった.以後、INKは私のWACAへ大きな力となってくれた.

HQQがWACAを完成してしまったので、移動に行くこともなくなった.新しい移動のパートナーが必要になった.幸いにもローカルには群馬の新鋭JS1KHRがいた.頼もしい多くの同志を得た私は、いよいよWACAという山への最後の峰へ、その一歩を踏み出した.こうして1987年は暮れていった.



第4章 そして伝説へ・・・

しかしWKdの延びに比べ、Cfmはなかなか延びなかった.WACAを狙った以上、JARLは転送事故も多いと聞くし、大事なQSLの到着も必ず無事だとは限らないので、Wkd600前後の交信から、すべてSASEを出したお金はかかったが、確実に返信は得られるものと思っていた.ところが、返信がなかなかもらえない局が多かった.2度、3度とSASEを出しても無視されることが多々あった.それが不思議にもSJJGの会員が多かったのだ!一番JCCに理解がありそうな人の冷たさには正直閉口した.

あけて1988年、WACAを狙うにはもう一つの障壁があった.遂に大学が専門課程3年となり、患者相手の実習が始まるため、最悪QRTも余儀なくされそうだった.1988年年頭のWkdは617で、あと50市も残っていた.正直、残り10市にでもなれば上出来と考えていた.残りを考慮すると、やはり3,7エリア、そして岡山県が最大の難関であった.INKに3エリア、岡山の残りを伝えると快くリクエストに応じてくれ、多くの未交信市をサービスしてもらった.7エリアもこの年の5月25日の空前のEsで4市を落としたほか、JS1USYのゴールデンウィーク岩手移動、新庄市移動で残りは「花巻市」のみとなった.

ここで「国道122号事件」について記しておこう.

4月29日、USYの花巻市移動があったのだが、どうしてもアルバイトの都合で迎撃移動に行くことができなかった.仕方なく次の日の朝にでも迎撃に行くかと思っていた.アルバイトから帰ってくると、KHRからつい先ほどまでUSYが入感していたとの連絡が入り、「7エリアに驚異のロケを誇る彼の家ならば、きっと交信できるはず!」ともくろんだ私は、23時をすぎていたが、彼に了解をもらった後に、国道122号を疾走した.

遅い車はどんどん抜いていると、館林市日向町付近で、夜の夜中に40kmでトロトロ走っている車がいた.「この野郎!こんな夜中にトロトロ走りやがって!!」と思い、花巻市のことで頭がいっぱいになっていた(若い)私は見事にその車を抜き去った!「ざまぁみろ!」と思ったその瞬間、なんと!!

車の上に赤い回転する光が載ったではないか!!

一瞬心臓が止まった.観念して、車をすぐに左に寄せ、免停覚悟で待っていると、最初はかなり怒られたが、10分後の世間話のあとに、なぜか反則金もなく、無事に釈放された.(注;あのときのお巡りさん、どうもすみません.感謝しています.)(イラストはJH8IOJ中沢昌之さんによる)

しかしこうした苦難も報われず、結局花巻市とは交信できず終わり、これが因縁の始まりとなった.


1988年中の完成を目指した私は、未交信市の固定局の情報を集め、卑怯かなと思ったが、交信願いの葉書を出した.しかし運があったのか、なかったのか葉書を出した局とはほとんど交信できず、突発的な移動に救われ交信できることが多かった.

こうして本来目的としていた残り10市を6月には達成してしまった.

あの赤久縄山の移動以来、目標としてきたあの栄光の「WACA」が遂にそこに見えてきた!



第5章 Final Count Down !!


1988年はDXについては良いコンディションであったが、Esの発生率が悪く、特に広島、岡山といった4エリアとはなかなか交信の機会に恵まれなかった.

647市目は、6月19日のJR4QPD/4広島県府中市であった.先日からQRVの情報があったが入感なく、半ばあきらめていたが、19日に北群馬郡でKHRの迎撃につきあっていると、南東のScで思いかけず交信できた.

7月3日の6m&Downでは、朝よりEsが開き、笠岡、井原市の残る岡山マルチの局のみワッチし、笠岡市と交信.これで648市.

3エリアの残りについて、INK,KCPにお願いしたところ、ご両人ともに、二つ返事で快諾いただいた.KCPが長浜市を、INKは小野、加西市ということに決まったので、2週連続吾妻郡に行くことにした.
7月9日、KHR、JF1TAHと吾妻郡へ向かった.温泉で有名な吾妻郡草津町で食料の補給をすることになり、彼らが店に行っている間に、私は車につけていた一線を退いたRJX610とモービルホイップでワッチしていた.ご存じのように草津町は四方を山に囲まれた盆地である.QPDがEsで入感していたので、何気なくコールすると、QPDの応答はなかったが、なんと!KCP/長浜市が私を呼んできた!周波数10UPを叫びして、KCPをRJX610とモービルホイップで呼びまくった!!この異常伝搬は、KCPと交信した後にフッと消え、他の局は聞こえなくなった.買い物を終えて戻ってきたKHRは、「何をBPMはこんなところで絶叫しているのだ?」と一瞬私が気が狂ったと思ったそうだが・・・私は、この世に神が本当にいるのでは?と思ってしまった.山の上に行くと、相性が悪いのか、QRVしているはずのKCPはまったく聞こえなかった.(KCPも、「あの弱い声(=草津町での交信)以外は一切聞こえなかった.」;と後に語る.)今考えても不可解な伝搬である.RJX610でもぎ取った649市目の価値は大きかった!

次の週、INKグループの移動迎撃に、HQQ,KHRともに吾妻郡へ.この週、QPDが深安郡と井原市との境界でQRVするとのことなので、標的に井原市も加わった.INKらは移動慣れしているのか確実にこちらに飛ばしてきてくれる.小野市は16日、加西市は17日に交信し、井原市とも交信できた.他、天下の珍郡、美嚢郡、加東郡もサービスしていただき大感謝であった.しかし新宮市の移動情報を山の上で得たものの、2000mの山を持ってしても交信するとことができなかった.

7月末、また山形に行くことになった.INKやから上山市の移動リクエストを受けた.2,3エリアからは、上山市は鬼門のようである.上山の状況は前年訪れていることもあり、状況はわかっていた.準備をして,QRVしていると、突然INKが、迎撃に出かける前の固定から呼んできた.KCPと交信した草津町での交信と同じで、交信終了後、この異常伝搬は消え、静寂のみが6mに訪れた.どうやらWACAを目指すものには神様が味方してくれるものらしい.このほか、山形各地からQRVし、多くの局にNewJCC/JCGをプレゼントできた.

残りは、有田、松原、新宮、舞鶴、そして花巻の5市.

山形から帰ると、INKから新宮市移動の情報をもらい、雨の中赤城山に向かうが徒労に終わった.一方、花巻の固定局の方から電話をいただいて、北群馬郡から試みたが交信できなかった.まったくJCCが増えなくなった.しかし、このとき一足先にWACAを完成させたINKが8月20日に有田、松原市にサービスに行ってくれるという.まさに地獄に仏.その日はHQQ,KHRという群馬最強(狂)トリオ(当時)で吾妻郡へ向かい無事その2市と交信できた.夜中、BRIが呼んできて、仕事の関係で新宮の近くに行く予定なので、8月29日にQRVできるかもしれないという.あくまで仕事の合間なので、現地の状況次第との事であった.一方,INKにお礼の電話をすると「ここまできたら舞鶴もいってやるわ!」というありがたいお言葉があり、BRIに併せて29日にお願いした.

うまくいけば29日にはリーチだ!と思っていた矢先、

思わぬアクシデントが発生した.

ハムフェアの前日から、原因不明の腰痛が私を襲っていた.(注;これがのちに数年私を悩ませる椎間板ヘルニアの発症であった.当時はこのことに気づいていない.)3〜4日にわたり、ほとんど起立もできなかった.しかし「29日には迎撃に!この機を逸すればWACAが遠のいてしまう!」と念じていたら、29日にはなんとか動けるようになった.しかし長時間の移動や、アンテナ建設作業ができないので、HQQの応援を仰いで勢多郡赤城山へと向かった.

山の上は上州名物の雷だった.さすがにアンテナをあげるのは、「雷さん、ここに落ちて!」というようで怖かったが、気合いをいれて待つことしばし・・BRIのCWを受信し、交信成功.数分後舞鶴市のINKとも無事交信できた.興奮している時は、怯えていた雷も忘れるものだ.でも無理をしたのか、9月中は、腰痛と闘う事となった.



第6章 夢の宴

リーチはかかったが、花巻市との交信のメドはたたなかった.それまでにも花巻市の固定の方とも2度3度交信を試みるもいずれも失敗していた.考えてみると、あの「国道122号事件」を起こしてまでも交信できなかったのは実に残念であった.まさか花巻市が最後になるとは思っていなかった.その上、花巻市はロケーションの良い移動地もないようである.リーチはかかったが、空しく無駄ヅモを繰り返すあの心境である.

「残り1つになればいつでもできるさ.」とタカをくくってはみたものの、実際その状況に置かれるとWACAを完成させ、学生時代の金字塔をうち立てたい!という衝動に駆られる.

「どうしてもできなかったら、行きますよ.」とローカルは慰めてくれた.「今年中の完成は無理か・・・」と思っていた9月上旬のある日の夜、私に電話がかかってきた.

電話はUSYからだった.私が残り1市なのをローカルから聞いたとのこと.「花巻ですけど、私が行きましょうか?」まさに、天の声.これまでに彼には、我々のリクエストで岩手の各地をサービスいただいていたし、再び遠路はるばる岩手まで・・・とは礼を欠くとは思ったが・・・・結局頼んでしまった.相談の結果9月10日18時、北群馬郡で失敗しているので、邑楽郡板倉町のJS1KHR宅で迎撃することにした.


運命の日がやってきた.まさに一日千秋.あと少しで夢にまで見たWACAが・・・・


しかし、そこにはもう一波乱のドラマが待ち受けていた・・・



18時.USYは出てこない.


「こちらも雨だし、きっと花巻も天気が悪いのだろう」と思って、もう少し待つことにした.

けれでも、19時、20時、21時になっても彼の声は聞こえてこない.運用中止の電話も来ない.もしかすると遭難したのでは?という考えが頭をよぎる・・・

遂に、心配のあまり、以前スケジュールを申し込んだJA7RG照井OMの家に電話を入れ、事情を話し、今彼が果たしてQRVしているのか聞いて下さいとお願いした.

USYは50140で出てくるはずなのでそこを聞いていると、なんと「JS1USY聞いてますか?」というOMの声がQSBを伴ってかすかに入感してくる.あわててJA7RGをコールすると、なんとか交信できたような?感じがあり、電話で確認すると、USYはいないこと、偶然にMSでレポート、コールが受信できたとのこと.しかしこれでは何となく交信してしまたようで、HQQが完成したときのようなあの感動がない.自分も妙に冷めていた.

「これでは自分で納得できない!これでWACAを申請しても良いものか?」と考えた.結局USYはとうとう聞こえず、雨の中、無念の帰宅となった.

眠りから覚めたのは、USY入感のKHRからの電話であった.すぐに北ビームでワッチするもロケーションの悪い固定では一瞬MSで受信できたのみであった.KHRの家では良く入感しているという.私は、FT690を車に放り込み、彼に承諾を得た後、再晩帰った国道122号を疾走した.50分後到着.ワッチすると、太田とは比較にならないほど、聞き慣れたUSY/花巻市のCQが明瞭に入感していた.

気を落ち着けコール!

1988年9月11日0921JST、ついに交信成功!

名実ともに、WACAが完成した瞬間であった.こんなに早く完成するとは!昨日のもやもやも併せて大はしゃぎであった.KHRから祝福の言葉をもらう.この瞬間、今までの思いが昇華したような、何ともいえない心地よい脱力感を覚えた.同時に山々の移動、真夏のEs、焦燥感などの思い出が走馬燈のようによみがえってきた.心の底から6mをやって本当に良かった!と感じた.


翌日、USYから花巻温泉の消印のついた封筒でQSLが送られてきた.QSLにはこう添えられていた.

祝・WACA完成!!



第7章 WACAっちゃいるけどやめられない!


SJJGに入会したのは、1986年の末、JCCはWkd400の頃だった.HQQに見せてもらった会報の「WACAまでの軌跡」は感慨深く、いつかは自分もと、思っていたが、まさかこんなに早くできてしまうとは、当時は夢にも思わなかった.(右はWACA完成記念QSLカード)

良き師、友人、ローカルをもつこと

どんなものでもそうだが、目標達成には多くの人の協力なくしてはできないだろう.わからないところは、教えを乞えるようなOM、苦楽を伴にする仲間がいると良い、北関東はそういった意味での協力体制が抜群だった.

50MHzは移動最適!

固定でWACAを狙う人は別にして、JCCを増やそうとするなら移動が一番だと思う.固定からとは違った楽しみ、苦しみがたくさんあって貴重な体験ができること間違いなし.移動によって知り合いになった人も多く、後々のJCCハントに大きなプラスになると思う.それからぜひ、自分の住む県だけでなく、別のエリアにいってサービスをしてみると、本当の移動の苦しさ、辛さがよくわかる.

QSLカードは必ず出す

"QSL is the last courtesy of QSO."
自分の移動のカードはなるべく早く相手に届くように努力する.(せめてSASEには返信を出してほしい.)
WACAは山に例えるのなら数ある名峰の一つに過ぎないだろう.幾多の困難の後、頂上に立った時の、満足感、爽快感は実にすばらしい.しかしまだ6mにはより高い名峰(JCG,DX)が残っている.今後もその山々の頂上への挑戦を続けていくことができれば幸いである.

末筆ながら、私のWACA完成のため、これまで交信いただいた日本中の6mマン、そして物心両面で私を支えてくれたローカルのJH1ECU,JS1KHR,JA1HWO,JS1MLQ,JF1WSV並びに貴重な市をサービスいただいた6m Expedition Team,JF1FSR,JM1NPF,JM1WPT.JP1END,JF2NCI,JJ2HAJ,JG3IFX,JK3HUQ,JR4QPD,JF6DEA,JH9QII,JH0RNNの各氏、残り少ない私のJCCのため、遠方までご足労いただいたJE2KCP,JG2BRIの両氏、いくつもの珍市をサービスしていただき感謝に堪えないJJ3INK若松氏、JS1USY植平氏、そして右も左もわからなかった私をご指導いただいたJO1HQQ土井内氏に最大級の謝辞を申し上げる.

Thank you so much !!

SJJG#715 鈴木英樹



あとがきにかえて

 この感動からすでに10年余.まさに「WACA」は私の人生の「金字塔」となっている.
インターネットで、花巻市のホームページを見た.あれほど交信できなかったのに、インターネットではものの数ミリ秒で「花巻市」へ飛んでいく.良い時代になったのものだ.
花巻市ホームページはこちら.ぜひ一度、花巻市を訪れてみたいと思っている.

USYの登った山はどこにあるのだろうか?きっとあの頃と同じような緑に囲まれている美しい山がそこにあるに違いない.


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