Apr. 16 to Apr. 19 in 1990 from ChiChi-jima, QL17


Worked and confirmed 8 entities on 6 meters!

Entity (Numbers of Stations)
JA(59), JD1/O(2), VK(5), VS6(4), V63(1), KH5J(1), P29(1), T20(1)


第1章 南の島への憧憬


 移動運用は、呼ばれるのが快感である.QRV が困難な所へ、苦労していって、皆に 呼んでもらう.いや呼ばせる!! JCCやJCG のサービスでも、無論この「トリップ」はできるのだが、より『ハイ』な状況に身を置くためにも、なんとなくDX-Peditionというものに憧れていた.
 少年時代の夢がそうであるように、この種の想像は、大きくなることはあれ縮小することなんてない.だんだん『思い』だけが一人歩きする.私は当時奨学金をもらっている身分でありながら、この計画を実行すべくわずかながらではあるが貯蓄に励んだ.
 JF6DEA木下さんとパケットのメールのやりとりをして、DX-Peditionの話に花が咲いた.当時、彼とは一度も会ったことはなかったが、メールやEsでのQSOで妙に気が合う仲間であった.これを本当の「波長のあう」仲間というのだろう.ターゲットをVK9X,C21に絞っていろいろ考慮した.JA1UT林さんに直々にVK9Xの行き方を書面で伺ったりもした.しかし多くの夢がそうであるように、多くの現実を知ると夢は急速にしぼんでいく.あまりの煩雑そうな手続きに閉口した.数ヵ月後に国家試験を控えた私には、それをこなそうという気力が萎えていった.
 ある夜、1990年1月のころだったか、家に帰ると(卒業試験の最中)JK1TNN-BBSからメールが一通転送されていた.差し出し人はJG6CVO松本さんだった.私は彼をEsで交信したことはあったが、殆ど面識がなかった.メールにはJD1に4月に行こうと思っていること、JF6DEAに相談し たらJN1BPMにメールを書いてみては?といわれたことなどが書いてあった.しかし彼は4月上旬からJD1に行くという.私は上旬に大事な医師国家試験があり、なおかつ4/22には友人の結婚式がある と前々から言われていたので、一週間しか行けないがそれでもよいか? とCVOにメールをだした.CVOの返事はOKとのことだった.おまけに船の日程表やら、いろいろな資料をパケッ トで送ってくれた.  

 私は日程から4/13東京発4/17父島発の船でJD1に行くことにした.考えてみれば、JD1だって立派な1カントリーだし、まだまだDXにはレアカントリーのようだからある程度は呼ばれるだろう.パスポートもビザもいらない日本だし!そして東京から1000Kmも離れた南の島を想像するだけで楽しいものである. 結局まだ一度も会ったことのない(!!)JG6CVOに合流してJD1 DX-peditionをすることになった. (まるで『無線をやると誰とでも友達になれます.』という少年無線雑誌のコピーのよう な出会いである.)最も機材は彼が先発で全て輸送してしまうということで私は、最小限の設備と、酒(笑)を持ってくればいいという、安直きわまりないDX-Peditionというよりは旅行の範疇に入るものになってしまった.しかし元来お祭屋の私はローカル局に予定を知らせ、是非QSOしようぜ!!ともちかけた.皆、「おいおい本当にいくの〜」という反応であったが、是非呼ぶと言ってく れるので私も満悦であった.
大学生協で船の切符を手に入れた. 文字どうり無銭家の私は2等の往復を買った.4月になっても、この旅行のことを考えると気が滅入らなかった.
 4月上旬の医師国家試験は(合格したから良かったものの)終わったときは確実に落ちたと思っていた.私は、落ち込んだ心で南の島へ旅立つのであった・・・・・まるで傷心旅行だな・・・って.

 第2章 荒波の拷問

 4月12日私は東京の弟のアパートに泊まり、翌13日、私は大嫌いな朝のラッシュにもまれ竹芝桟橋へと向かった.いでたちは登山用リュックという満員電車の顰蹙者であった.この日は朝から雨が降っていた.浜松町駅から竹芝へと向かう.こんな時期に小笠原に いく物好きは俺くらいだろうと思っていたが、予想を裏切り多くの人が待合所にいた.こ れには驚いた.乗船名簿に、大学を卒業した宙ぶらりんの状態なので『無職』と書くのがなんか情けなかった.(6月から医師として採用される予定になっていた.)「なだしお」にでも ぶつかって沈んだら、死亡者に「無職」ってでちゃうなぁと思うと情けない. 船に入ると2等は座敷に雑魚寝、一人に一枚毛布支給という、収容船のような雰囲気で あった.予想を裏切って船の中はたくさん乗客がいた。釣りの道具を持っている人や明らかにサーファーの人もいて様々である 船酔いを恐れた私は、酒を買ってきてしこたま飲んでいた.こうすれば先に酒に酔って しまい船には酔わないのでは?と考えたのである.船で隣り合わせになったのは、Nさんという日本画家の方であった.小笠原までを 見に行くのだという.話をしていて意気投合し、Nさんに飯まで奢ってもらった.「小笠原まで無線に行くの?へぇ〜」とNさんは感心しきりであった.船の売店を覗くとなんと100枚1700円という規格QSLが売っているではないか! Nさんに「これ無線の交信証にするんですよ.」といったら「結構、この船に乗る人のシェア占めとんのやね! 」と 感心していた.最も私も鯨を見にいく人がいるとは知らなかったけど.

八丈島近海にくると、折からの悪天候で海が荒れ、船は大きく揺れた.白波が立ち、海 は青というより黒の色彩を帯びている.ついに私は気分が悪くなった.恐れていた船酔い が現実になった.トイレに駆け込み、吐きまくり、後はひたすら寝るしかなかった.起きていられないのである.列車でなんか酔った事もないのに・・やはり船酔いはきつかった.外へ行っていい空気を吸っても、シャワーを浴びてもずーーーっと気 持ち悪かった.隣では小笠原の住民の人だろうか、女の人が東京の出航から我々とは一言も交わさず寝通しでいた.きっとこれが船酔い封じの秘訣だろうと思った私は帰りには、これを実行しようと決めた.Nさんも夜が明けて、気持ち悪いといいだした.やはり20時間 を越える船旅は、海無し県民には拷問だ.なのに釣り目的の人々は、こともあろうに将棋を真剣に指している.俺はとてもそんなマネは出来ない.

 小笠原に近付くにつれ、波も収まってきた.聟島列島(小笠原北部の無人島:野生化したヤギが住んでいる.)が見えた時には、島を見られる嬉し さで写真をバシバシとった.さすがに南国.外は曇っているがムシ暑い.FT690でEスポがでてないかワッチしたが全然聞こえなかった.「いや〜本当に揺れましたね〜」とNさんと話をしていると前にいたおばさんに『今日なんてまだ揺れないほうよ』と言われ二人とも唖然とした.

 やっと父島が見えてきた.父島二見港入港は4月14日 15時30分だった.シケで一時間遅れの29時間30分の過酷な船旅となった.もう船はこりごりだ.念願の父島に一歩はしるしたが、体が妙 に揺れているのを感じていた.私の三半規管は完璧にいかれていた.

 第3章  父島上陸 



港に着いた.が、良く考えてみれば、CVOとは一度も会ったことがない.困った.しかしFT690を持っていれば、向こうが無線家だと思って声をかけてくるのでは? そう考えてFT690を携える.うろうろしていると『BPMさん! 』と声がかかった.CVOである.「初めまして」なんて、妙な挨拶 をして、彼の手を見るとしっかりIC03Nが握られていた.『これならわかると思いましてね.』 (小笠原の人は本土とは言わず、内地という)当初泊まるはずの「シートピア」はインターフェア がでるそうで、(1990年頃から父島では衛星放送が普及している.)父島のはずれの扇浦の『ビー チコマー』に変更になった.「昨日は晴れて、ビーチコマーの方に移転を済ませたんですよ.今日は生憎の天気ですけど.じゃあ行きましょうか」と荷物を宿の車に乗 せた.宿の車は赤いスバルレックスである.でも品川ナンバーである. 「その前に、食料を補給していきましょう.なにせ何 もない所ですからね.」父島のスーパーは、目が飛び出る程高いかなと思ったが、生鮮食料品以外は内地と変わらなかった.『シートピア』のJD 1ALZ筒井さんを訪ね、南鳥島へいった時の話などを伺った.
シートピアを後にして、ビーチコマーへ向かった.父島の中心部からは徒歩一時間である.CVO のいうとおり、そこより先は何も無かった.宿帳にまたも無職と書いた.CVOに改めて挨拶をしたり、アンテナ見学をしていたが、いかんせんいまだ体がギンギンに揺 れている感じがした.私の三半規管は完璧にイカレて直っていなかったのだ.その為オペレートをしよ うにも気持ち悪くて全然できそうにもなかった.しかし根性入れてFT690を取り出し50MHzでJD1BFNと1st QSO をした.この後しばらくの間、意気込んできたくせに、私は頭がふらつくのでオペレートを遠慮していた.やはりガッツは失せていた.船酔い恐るべし!立っているとフラフラするので部屋にかえり休んでいると夕食のコールが来た.夕食の刺身はうまかった.
部屋に帰って50MHzを聞くと、VS6SIX/bが599で入感している.110 でCQを出すが応答なし.18時57分、VS6(現VR2)ビームでCQをだすとJAが呼んできた.以下、間にVS6 3局を含みながら、JAの壮々たるDXerが呼んでくる.(きっと同時期にJG2BRI千田さんによって運用されていたジャービス島のAH3C/KH5Jと間違えたのではないでしょうか?(笑))我等が師匠 JH1ECU荒木さんとも交信できた.されどJAのシグナルは皆弱い.こちらもむこうもお義理のレポートの応酬である.20時10分まで延べ20局のJA、 3局のVS6と交信できた.同時に50.110でマカオのXX9KAが入感していたが、JAのパイルに勝つことができずQSOできなかった.
初日にあっけなくJAとできた.しかし1時間のオペレートは頭を一層フラフラさせるに充分だっ た.あー、まだ気持ち悪い・・・

第4章 心酔のパイルアップ! 


21時20分頃、根性を入れて7MHzのCWにでることにした. (今思えば、フラフラしている状態だったし、CWも苦手なんだからやらなきゃよかった.) CQを出す.ドヒャ〜!こりゃなんだ!! 呼ばれる、呼ばれる.しかも全然コピーできない.かといってここでやめる訳にもいかないし・・・私は頭をグチャグチャにしてCWと戦ったのでした.でも全世界の多くの人が、こんな俺を一瞬でも必要としているんだ!という陶酔感は快感! 実生活でそんな瞬間ないでしょう??やっぱり無線はいい!

 CWのパイルが一段落ついたので、7MHzのSSBに移ることにした.ローカルのJA1HWO菊地さんと交信すると約束していたので空いてそうな周波数を見つけCQをだし た. 7局目にHWO が呼んできた.良く聞いているなぁ.でも怒濤のパイルには程遠く、さばくのは余裕であった. しばらくして頭を休めるべく、CVO と交代.CVO はCWが大好きで、ハイペースでパイルを さばいている.だてに10000局目標じゃないな〜と感心.彼の寝たあと、02時50分 頃から、またも7MHzSSBにでた.「こんな時間じゃ呼んでこないだろう」と思いきやパイルになるのである.JAは怖い.そんな私の元気も03時30分頃には無くなり寝てしまった.

  翌15日、朝から大雨である.さりとて朝は50MHzも死んでいた.ぼーっとノイズを聞いていたが、飽きてきたので、 じゃあいっちょうやったるか! JAと遊んでやるか! なんて軽い気持ちで、JAに開いていた21MHzでQRV. お〜〜〜〜〜っと!!怒濤のパイル!!これぞ私の求めていたパイルだぁ!(JAだけど) 一分間に 3局ペース !! 快調快調.一時間で120局近くの局と交信できた.この後、RTTYにも初挑戦したり、仮眠を取っていた.
 そうこうしているうちに、あっという間に一日が過ぎて、夕食のコールがきてしまった.夕食は鯛や刺身がで た.南国の魚は美味しかった.18時30分に部屋に帰ると昨日と同じようにVS6SIX/bがオープンしていた.50.110 ではVS6VF がCQを出していた.すかさずコール.このあとVS6XMT,-BIとQSO できた.しかしVS6以外は この時間聞こえなかった.50MHzの2日連続のオープンで、6mマンを自負する私はすっかり御満悦であった.
 今度は3D2ER とQSOできる.その直後CWでCQを出していると、VK2QF Nev がこちらをコール してきた.(VK2QF寄贈の、この時のオーストラリアでのJN1BPM/JD1の入感の様子は こちら(再生にはReal Playerが必要です.))彼はアクティブなOTでJD1 に行く前に交信したところ、『JD1は50MHzで未交信なので、是非交信 したい』と言っていた.彼の一言で、私は小笠原行きを決心したのである.レポート交換をする.SSB では『Thank you, Hide!!』とかなんとか言っていた.(後日唯一外国からのSASEが彼より届き、帰ってからのQSOでは彼曰く『今シーズンのBestDX!』だそうであるHi) その後、V63AOが強力に入感し、西村OMは『父島りょ〜〜かい』とPick up してくれた.
 一日が終わった.外は、雨は止んだが曇っていて、星空は眺めることができなかった.南十字星が見えるはずなのに残念だ.

 第5章 父島裏観光??


16日、朝CVO のヨーロッパをさばく声で目が覚める. 朝食後、またも21MHzへ行き、パイルを楽しむ. 天気は相変わらず悪く、雨が降ってはいたが、昨日の豪雨ほどではなかった.私はこの島へ来て観光をしていなかったので、近くの亜熱帯農業センターにいってみることにした.勿論徒歩で! ここは『亜熱帯の花咲き乱れ』と案内書に書いてある.宿のおばさんに聞くと歩いて10分だというので、これ幸いにと傘をさして出発した.ここで私は人と違い南からアプローチする(通常は北側の整備された道を通るらしい.)という、観光案内を まったく無視した行動にでた.一応地図の上では道があったので気楽にいったのだが、舗装はされていたが道は細かった.また道の脇にはジャングルが広がっている.そういえば案内書には『ジャングルには入るな』と書いてあったなと思いだす.
しばらく舗装道を歩くと亜熱帯農業センターが見えてきた.雨が降っていて庭の花々が残念だったが 、いろいろな花が咲き乱れていた.温室があって蘭の花もきれいである.他、山を探索した.細い舗装道を上がっていくとそこが父島のゴミ焼却場だったり、湾岸道路がプッツリと切れる様をみたり、最南端に行ってみたり、おそらく全く他の観光客の味わえないような散策をした.帰った時には跳ね上がった赤土の泥で靴はおろか、ズボンやシャツも汚れていた.この靴の赤土は、群馬に帰ってもなかなか落ちなかった.宿に帰るとほどなく夕飯になった.

第6章 戦慄の6m!! 


夕飯を食べて戻ってきたが、この日は『夕飯後伝播』はなかった.私は、50MHzを中心にワッチしていた.(他のバンドにはほとんど目もくれない.)20時をすぎるとV63AO が入感してきた.太平洋地域にパスはあるようだ.50.110でCWでCQ DX を出していると、20時19分に『SSB』とCWで打ってくる局がいる.なんだこりゃまたVS6 かな?と思ってSSB にかえ『QRZ? This is JN1BPM/JD1』とコールをいうと、『こちらはAH3C/KH5J ・・』とあの千田さんの声で呼んでくるではないか!! この時期、最もホットなDX-Pedition局との交信となった.シグナルは上昇し、59にまで上がった!!
50.130に移るとVK4BRGが59で呼んできた.また50.110の様 子を伺うと、ツバルのT20AAがKH5JとCWで交信している.交信後、T20AA をコールしQSOする.内地でもT2はやっていない(当時)のに・・・と思いながらの涙モノのQSOであった.その後VKや、お客さんのいないKH5JとCWでQSO したり、パプアニューギニアのP29ZGDのパイルに参加しQSOに成功した.

KH5JとのQSO成功に気分を良くした私はCVOと酒宴を設けた.昨日までは船酔いが残っていて、宴会が開けなかった.KH5Jもできたし、父島の最後の夜に呑む酒は気分よ く、少量で私を酔わせるには充分なものだった.

 何気なく50MHzを聞くと、「あれ?JAがスキャッターで聞こえるじゃないの?じゃあいっちょCQでもだすかな!」と、酔っぱらった私は50.130でCWでCQを出した.聞こえて来たのは怒濤のパイル!!しかもみんなお世辞にも強いといえないし、あのスキャッター独特の伝搬で、しかも蜂の巣をつつくようにこちらをコールしてくる ! 酒に酔うと私はまず聴覚が鈍るのだ.まさか50MHzのスキャッターのパイルがこれほどまでとは!よく聞こえない!わからない!こんなパイル、経験したことがない!私は初めて50MHZ の『楽しさと恐怖』を骨の髄まで味わった.スプリットにしたりして、さばいたつもりだったが、結果はSSB/CWで のべ30局と散々だった.もっとCWを鍛えていれば・・・酒気帯びでなければ・・・もっとQSOできたかもしれない・・悔しさに、さらにヤケ酒を呑んでしまう.夜中、酔いさましに、シャワーを浴びに行くが、またも空は曇っていた.

第7章 さらば、小笠原! 

17日.夜が開けた.小笠原最後の朝は少し晴れ間がでた.窓から見える扇浦の海岸はエメラル ドグリーンに輝いている.三日遅れで亜熱帯のビーチを見ることができた.朝食の後、CVO とビーチにでた.波打ち際を歩いていたり、貝や珊瑚を拾ったりしたり していた.どうも群馬県人の悲しい性で海を見るとはしゃいでしまう.その他、アノール トカゲ (小笠原固有種) を見つけて写真をとったり、ハイビスカスや遠くに見える父島二見港に接岸している「おがさわら丸」の写真を取ったりしていた.この日の小笠原の光景は綺麗だった.3日間の雨が、それをより引き立たせていたのかもしれないけど.

部屋に帰ってきて、バンドを一通り聞いてみた.50MHzは静寂が訪れていた.もう一度、50MHzが開かないかな? 昨日の借りを返したい.けれどだめだった.未練がましく21MHzでCWでCQを だすがあまりよばれない.(この日、デリンジャー現象で、HFは死んでいた.)10時05分 K3ARVのQSO を最後にJN1BPM/JD1はQRTした. いよいよ内地に帰るときがきた.もっと長くいたかった.
チェックアウトをした.宿のおばさんは「おにいさんは、不運よね.雨ばっかりだった しね.」といっていた.確かに雨ばっかりだったけど無線家には関係ないもんね.宿を出る時間になった.CVOも、二見港まで一緒に見送りをしてくれるという.
おみやげを買って乗船手続きをすると、Nさんがやってきた.彼は観光に来たのだから雨ばっかりでつまらなかったと文句をいっていた.でも鯨は少し見ることができたらしい.出港の時間が近付いた.宿の人に挨拶をし、CVO と「今度はEスポでラグろう!」と約束し船に乗り込んだ.「Thank you,CVO! Good luck!! 一万局やってね!」  

船は穏やかな海を東京へと向かう.船の中でNさんや母島にいっていた老夫婦と小笠原の話を した.行きの船で散々嫌な思いをしたので、今度は、水分補給を充分にして、ひたすら寝ることにした.結局、24 時間近く寝ていた.近くの釣りに来たオジサンに「兄さんはよくねるなぁ」と褒められた?? これはあまり酔わない!こうすればよかったのか!

船は東京竹芝桟橋に着いた.東京の雑踏も何か一年ぶりかのような感じがした.Nさんは「もう二度と小笠原に行くこともないやろ.君はまた小笠原にいくのかい?」Nさんが聞いた.私は帰りの船に酔わなかったせいか、も う一度小笠原に行く気力が沸いていた.「うん、またいつかね.」 Nさんは「こりないねぇ」と言って苦笑し、そして別れの握手をした. 


(この手記は、1990年当時、お世話になったローカル諸氏に配った旅行記を、
ホームページに掲載するにあたり、改めて編集したものです.)


あとがき

この旅からすでに幾歳月の時が流れようとしている.
私は未だ小笠原の風景を、そしてあの「50MHzの戦慄のパイル」を昨日のことのように思い出す.その後、JG6CVO松本さん、JF6DEA木下さんとも、某学会で熊本にいったときに、再会を果たし、今でも旧交を温めている.

QSLは、初めてカラー版を製作し、すぐに書いて、JARLに出したのだが、数年後DX局から「PseQSL!」のQSLが多く届くようになった.おそらくあの「JARLのQSL未転送事件」に巻き込まれてJN1BPM/JD1のQSLはいっこうに外国に行かなかったらしい.以来、私はJARLを信用しなくなりました.(笑)

いつかまた小笠原をぜひ訪れてみたい.
でも、もう船酔いはいやだなぁ.HiHi

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